一汁一菜、一木材

ただの備忘録です

ライト・メメント・モリ

 

※この記事は『ペンギン・ハイウェイ』の内容に触れています。ネタバレにご注意ください。

 

 2回目の 『ペンギン・ハイウェイ』を観に行った。1度目は梅田の大きな映画館であったが、今度は出町座という、京都の小さな映画館のスクリーンでだ。

 

 10:10からというとても早い時間からで、大阪にいる私はつまり8時過ぎには家を出なくてはならず、それはつまり7時半に起きるということをしなくてはならなかった。通常の自堕落な生活からは考えられぬ早起きである。それを難なく遂行できたのだから、どれだけ私が楽しみにしていたかおわかりであろう。

 

 2回目でも泣いた。一つ残念なのは、あの映画を観終わり、劇場の外へ出ても、もう暑くもなんともないことだ。少し肌寒くなってきた10月に、あのお姉さんとアオヤマ君が過ごした夏は、これっぽっちも残っていない。そのことが悔しくてたまらない。

 

 もう一度くらい劇場で観たいと思うくらいには大好きになってしまった映画で、好きなシーンを挙げればキリがない。が、あえて一つ上げてみようと思う。

 

 それはアオヤマ君がおっぱいケーキを頬張るシーンでもお姉さんがウチダくんを助けるため缶を豪速球で投げたシーンでもない。

 断食実験をしている最中のアオヤマ君の部屋に、妹が泣きながら駆けてきた一連のシーンである。

 

  お母さんが死んでしまう、と泣きながら訴える妹にアオヤマ君は狼狽するが、よくよく聞いてみると妹は「お母さんも例に漏れず、この世にいる生き物はいつか死んでしまう」という真実を恐れて泣いていたということがわかる。

 小説では妹とアオヤマ君が幾分か理性的なやりとりをしているのだが、映画では特に妹がリアリティのある描写になっている。(上手く説明できずに泣いているばかりなど) 

 

 この描写のどこが好きなのかというと、身に覚えがありすぎるという点である。 多少の経緯は違うものの、私はアオヤマ君の妹ほどの年齢の頃に本当にこんなことを考え経験して、なんとリアリティのある描写だと感激したからだ。

 

 私が小学校低学年くらいのころ。いや、もしかしたら小学校に入る前かもしれない。その頃はまだ父親が夜遅くまで働いていて、家族3人で食卓を囲むことは多くなく、母親と二人で夕飯の「カレーの王子様」を食べていたと記憶している。

 テレビか何かに触発されたのかもしれない。私はカレーを食べながら、ふと気づいて母に「いつか、みんな死んじゃうん?」と聞いた。母親は「そうやなぁ」と答えて、私は恐る恐る「…お母さんも?」と聞いて、また母親は「そうやなぁ」と答えた。

 もうそこからは、堰を切ったように泣いていた。母親がいつしか居なくなってしまう悲しみもあったが、単純に、恐ろしかったのだろう。親に守られ見渡す限りずっと安全な世界が広がっていたと思っていたら、急に薄い氷の上に立たされたような、どうしようもない不安に襲われていた。母親はまだまだ先のことだから、と笑って宥めてくれたが、私は中々泣き止めなかった。

 

 きっと、誰もが通る道なのではないかと、そう思う。死への恐怖、誰も彼もがいつかは死ぬということを初めて知る恐怖は幼い身には想像以上に堪えるものだ。

本当の死を迎えるのは随分後になるのだが、長い生の道中にはその恐怖が掘り起こされる瞬間は何度も訪れる。それがメメント・モリだ。私はアオヤマ君のように大人になる日数を数えられない代わりに、小さなメメント・モリを積み重ねてきた。就職先も、おおよそ死に近いところにある。私は無意識のうちに、この恐怖と共に歩こうとしている。

  この古臭い思い出を手放せずにいるのは、そういうことだろう。

 

映画の話から薄暗い話に変わってしまったが、「ペンギン・ハイウェイ」は、少年が未知なる希望の道を歩もうとするとても明るくて切なくて爽やかな終わりを迎える話なので、是非一回観てみてほしい。もちろん今からでも、季節が回ってレンタルに出されたら、彼らの冒険の余韻を感じられる、夏の終わりにでも。

追記:この記事を書いた後に、「ペンギン・ハイウェイ」のBlu-ray/DVD発売決定の報を知る。おめでとうございます。ありがとうございます。買います。

木材観察日記

 

 先のブログから、随分と時間が経ってしまった。というのも、リアルの世界で様々な都合で説明のしにくい色んなことが起きてしまい、そちらに時間と精神力をとられていたというのが大半の理由である。そして先日、最大の懸念事項に片がついたため、こうしてブログを書いているというわけだ。

 

 Twitterアカウントを削除してはや一ヶ月。消してみた感想としては、ストレスフリーになって最高だということだ。実際のところはTwitterと完全に縁を切ったわけではないし(今どきのソシャゲメインオタクはTwitterを失うと一気に情弱になってしまうため)、主要アカウントを削除したのみにとどまり現在はごくごく小規模なアカウントを運用している。結果として、気楽さが段違いである。Twitterヌーディストビーチ。私は密かにそう名付けた。楽しくなってしまってあれやこれやと時間の隙間を見つけては、節操もなく書きつくってしまう。まさに個人の「つぶやき」、Twitterの本来の用途とはかくあるべしと言わんばかりだ。

 SNSの利点とは、私自体は動かずに世界だけを拡張可能なところにあると思うのだが、それは自分が抱え込む事のできる感情・情報のキャパシティを無視出来てしまうことでもある。供給と「受容」のバランスが崩壊した結果が、いわゆるSNS疲れだ。以前の私はどうにもそのバランスを間違えていたと思われる。楽しいことにはいつも飛びつきたい性分ではあるものの、見境なしで倒れていてはしようがない。

 

 しかし、フォロワーさんたちとの愉快なやりとりが恋しくなっているのも否定はできぬ。頃合いを見てひょっこり戻ってこようと画策しているので、見つけた際はデコピン一つくらいで勘弁していただきたい。

 

それでは、近況報告はここまでにしておくとして、次回からまた備忘録を綴ることとしよう。

 

P.S   ありがとうアイドルマスターシンデレラガールズスターライトステージ

f:id:amerarudo_hrn:20181007173003j:image

 

 

 

銀魂っていいな~

 

 お久しぶりです。

 

 本当は15日に更新すべきものだが、過ぎてしまったことはしょうがない。ということで、今回は2018年9月15日発売の週刊少年ジャンプにて週刊連載を終了した、空知英秋氏著の『銀魂』について話したいと思う。

 

 私はいわゆるオタクに分類される人間で、小さい頃からアニメ・ゲーム・漫画etcに彩られた毎日を現在進行系で送っている。その中でも、銀魂はそんな人生のうちでとりわけ一番付き合いが長い作品である。

 初めてそれを知ったのは小学校高学年の頃。2000年代のジャンプは、(私が最もジャンプに接近していた時代であるということもあり、贔屓目も大いにあると思うが)人気作がドンドンと掲載され、それに伴いアニメ化も成されることが多かったと記憶している。ONE PIECEやHUNTERXHUNTERは既に大御所の雰囲気を漂わせており、その脇をNARUTOBLEACHテニスの王子様DEATH NOTE家庭教師ヒットマンREBORN!や現在は別雑誌へと移籍したD.Gray-manなどが固めるという盤石としか言いようがない布陣であった。(後続にハイキュー!!黒子のバスケ暗殺教室などが続くのだから、ジャンプの層の厚さには驚かされる。)

 そんな中で、そんな作品の中で、よりにもよってずっと寄り添うことになったのが銀魂であった。当時はコミックスを全部揃えられるような財力が無かったため、母親が買ってくるコミックスを読む場合が多く、ジャンプコミックスBLEACH銀魂を主に買ってきたのであるが、BLEACHの方は「まだあんたには早い」という理由で早いときから読めたのは銀魂のみだった。何故?の一言でしかない。(下ネタの酷さで言えば断然に銀魂の方が上だろうに…)

 

 ともかくとして、銀魂には本当にたくさんのことを教えてもらった。自分の武士道というルールを守るということ、腐れ縁という概念、血が繋がらなくとも存在する絆、笑いを誘う言い回し、やったことないはずなのに溜まっていくドラクエの知識、…それらを、センス抜群の磨き抜いた言葉で伝えてもらった。ただ、漫画にしてはあまりにも文字のウェイトが高かったのも本当だ。声優さんも長いセリフを息継ぎなしで話さないといけなくて、大変であっただろう。

 アニメ版銀魂も、語り尽くせぬ思い出がたくさんある。何をどう思ってゴールデンタイムで放送し続けようと思ったのであろうか。当然のように左遷された後も、BGM使用の問題で地上波放送版が完全版というわけがわからぬ逆転現象が起きたり、かと思えば崩れぬことのない作画で派手な戦闘シーンを描いたり。原作の魅力を最大限引き出して、一躍銀魂の名を有名にした。私が何よりも感心していたのは、アイドルであるお通ちゃん歌唱以外のキャラクターソングを一切出さなかったことだ。その頃はREBORNやらテニスの王子様やらでたくさんキャラクターソングCDが発売されており、お金を稼ごうと思えばいくらでも稼げるはずだったが、放送開始から10年以上たった今でも、そういう類のものは発売されていない。原作者曰く銀魂の登場人物は歌うような人間ではないらしいが、それを律儀に守り続けているスタッフたちが、大好きである。

 懸念された実写化も、蓋を開けてみれば大成功であった。原作ファンが愕然とすることが少なくない漫画原作実写映画で、小さい頃から共に原作のファンである友人と映画館に喜び勇んで向かえることの、なんと幸福なことか。監督並びに役者さんたちに、最大限の感謝を送りたい。実写映画の話だけでもブログが書けてしまうので、今回は割愛。

 アニメが長年放映され、二本の映画も制作され、最終章に突入して実写映画にもなり、私の隣りにいた銀さんは、いつしかジャンプを背負って立つ存在にまでなっていた。今でも私はその実感は薄く、不思議な感覚である。Twitterトレンドに度々上がったとき、ZIP!で取り上げられたと聞かされたときもだ。昔からよく知る近所の変なお兄さんが、どんどんスターダムに駆け上がっているのを、呆けた顔で眺めるしか出来ない感覚。連載が終わって銀さんの年齢を追い越し、しわしわのお婆さんになったとしても、坂田銀時という男は年上で、ちゃらんぽらんとしただけどどこか格好いいお兄さんで居続けるのだろう。神楽ちゃんや新八のことはもう年下だなあと思えるというのに。

 

 本当に、銀魂のことを話し出すと、まとまらないし止まらない。それくらい、銀魂を構成する何もかも全てずっと大好きであった。これは中々に稀有なことではないだろうか。それをなんだかんだで10年以上。原作者である空知先生はもっともっと長い時間に感じるのではないだろうか。本当にお疲れ様でした。最終回を迎えた感想としては、

 

 

 テニプリっていいな~と思った。

 

 

 …さすが、終わる終わる詐欺という言葉を生み出したチンピラ漫画は違う。ずっこけて、心の底から笑ってしまった。(厳密に言えば原作は一切終わる終わる詐欺というのをしておらず、大体はアニメが戦犯であるのだが漫画でも一回それに近いギミックを仕込んでいたので、まあ、お互い様である。)しんみりしてしまうところに、キュッと緩さを加えてくるのは、劇場版二作目の某シーンを彷彿とさせる。

 

 本当の千秋楽はジャンプGIGAにて。銀さんが貫いた侍道、最後まで追わせていただきます。

 本日はこれにて。

とくになにも、なくはない日

 

 Twitterアカウントを削除したのちは、周辺は平和なものである…とは少々言いにくい。SNSを断った瞬間に安否確認が必要な類の災害が起こるのは勘弁願いたいものだ。一応、このブログを更新していることからもわかるが、住んでいる地域に強力な台風21号が直撃し、地元は樹木が倒れるなどの被害を受けたが、私個人としては家族も家も無事である。安心してほしい。

 

 さて、こうして備忘録を書くというのも四回目。前回に予告したとおり今回は三日坊主について話をしたいと思う。

 

 私はどう好意的に捉えたとしても、律儀ないし真面目な性格ではない。継続力が無いというか、本当に飽きっぽいのだ。それはつまり、三日坊主に繋がりやすい。

 例えば、昔このようなブログなど使えなかった小学校時代に父親からジャポニカ学習帳シリーズの日記ノートを手渡された。お馴染みのよくわからない外国の花の写真が表紙になっていて、B5サイズの紙に半分ずつ日記として書ける縦書き用スペースが設けられていた。そこに毎日、思ったことや一日の感想を書き連ねて観察眼を磨いていけという代物である。

 この話の流れからわかっていただけると思うが、日記という律儀で真面目な人間か、既に習慣となってしまった人間がやるべきものを私が良い子にやるわけがなかった。

 最初こそは何かを書こうとした。しかし、日々を過ごしていく中で、日記を書くために生活を過ごしてネタを探すということに早々に疲れてしまい、その日は『今日はとくになにもない日だった。』と一文を書いて終わった。…そして次の日も、そして次の日も、『今日はとくになにもない日だった。』と書き連ねていくうちに、馬鹿らしくなってしまって、始めてから一週間もせずに日記帳を開くことは二度となかった。返す返すもふざけたエピソードである。

 

 三日坊主というのはただ事物に対してだけではなく、自信が課したルールに対しても発揮される。幼少期から青年期に至る間で『自分で決めたルールを遵守する』というものが要求されるであろうものは、そう、何を隠そう「夏休みの宿題」であろう。

 夏休みの宿題はただやればいいというものではない。もちろん、学力向上という目的もあるに決っているが、改めて考えてみると、あれは長期的な時間にもたらされた課題を自分が一体どのように片付けていくのかというのを理解し、己の傾向を把握するというのも一つの秘められた目的であったと思うのだ。そして、その「傾向」というのは悲しいことに一朝一夕で直るものではない。一生付き合っていくしかない「さが」だ。

 私はどうであったか?最初こそ計画を立ててみようと考えはするのだが、早々にそれは破綻する。私は疑問に思っていた。「明日は今日と同じような日であるはずも無いのに、同じ分量の課題を同じコンディションでこなせるわけがないのでは?」と。つまるところ自分が課したルール遵守に飽きてしまうのだ。日記に『とくになにもない日』というコピー&ペーストな日々を量産していた人間とは思えない口ぶりである。

 

 ここで、私の第二の悪癖が顔を出す。それは『くりこしグセ』だ。例えばここに、一日に分量1をこなせばよい課題があったとする。私はその課題を0.5しかこなさなかった。残った0.5の課題はどうするのかというと、言葉のままに明日に「くりこし」、明日1.5やればニ日で分量2をやったことと同義となる。

 この「くりこしグセ」は、夏休みの宿題によく顔をのぞかせた。明日の自分に任せるパターンもあれば、なんだか課題がすいすい進む気分なので、今日で明日明後日の分も全てやってしまって楽してしまおう!という日もあった。こなす際の目安として分量を守っているかもしれないが、その日によって量を変動してしまったら決めている意味がない。そんな中途半端なやり方を続け、八月中旬を過ぎたあたりで途中でしゃらくさくなってしまい、残った少量を我慢できずに一日の内に全て済ませて、残った9月までの数日間をゆっくりすごすという、どこまでも中途半端な人間だった。言っておくが、最終的な新学期の提出日にはきっちりと終わらせていた。そこまで怠慢な人間でもなかったのだ。我ながら、人間くさい人間だと自嘲する。

 

 そのようにして理解した自分の「さが」を操縦してみようではないかというのが、このブログの密かな目的でもある。それと同時に、このブログは、あのときの、あっという間に飽きてしまった日記へのリベンジ・マッチも兼ねている。

 初回に文を書いた後、ブログに飽きてしまわないように、くりこしグセと三日坊主を防ぐために「一日にニ回以上投稿しない」「週に投稿するのは二回まで」「二日連続で投稿するのは避ける」というルールを課した。恐らく、このルールは守れているのではないだろうか…と思う。細く長く続けていくのが目標だ。

 

 ただ、歳を重ねて出来ることも関わっていく事物も格段に増えた今の私は、『とくになにもない日』というものが少なくなってしまった。ので、状況が変わって将来的に適宜ルール変更していくこともあるだろう。しかし、それはブログに「飽きた」結果でなく、ブログを続けたいと願った上での行為だろうと、そう願ってやまない。

 

 

 

 P.S     デレステにて、本当に本当に欲しかったアニバ限定高森藍子さんをゲット。(しかも二枚も)というわけで、限定スカウトチケットの使う先が、振り出しに戻ってしまった。限定飛鳥か限定ユッコか、それが問題だ。

木材、無音、窓辺にて。

 

 こんばんは。

 突然のTwitter削除に驚かれた方は…いらっしゃるんだろうか。あんまり覗いていなかったので反応があったのかはわからないが、そうであったのならまず謝罪を。しかし、決めたものはしょうがない。以前アカウントを削除したときは「千秋楽に観劇(『舞台刀剣乱舞 義伝暁の独眼竜』 )するまで一切のネタバレをシャットアウトするため」という一見しようが何度見ようががふざけているとしか思えない理由によるものだが、今回は少しばかり事情が違う。

 

 今回アカウント削除に至った理由は、有り体に言えばSNS疲れによるものだ。

 

 まあ、ここでその詳しい理由を話すつもりはない。結局どこまでいこうと個人レベルの「お気持ち」でしかない。そしてSNSで唐突に流れてきたものが目に入るというものではなく、わざわざこのページを開いてもらった上で暗い話をするつもりは毛頭ないからだ。

  

 そして、Twitterをしなくなろうがこのブログは続いていくし(なくなった分、更新頻度も高くなりそうだが)、次回からはちゃんと元の機能であるしょうもない備忘録兼なんちゃってエッセイに戻るつもりだ。そこは安心していただきたい。

 後悔していることといえば、第三回目にちなんで今回は三日坊主の話でもするか~!と意気込んでいたのが企画倒れになったことぐらいである。

 

 それでは短いが今回はここまで。次回予告は済ませた。それは何か?それは勿論、やろうと思っていた話を「繰り越して」、三日坊主の話だ。

 

読書の夜明けの話

 

 一回目の記事が我ながらいい出来だったような気がするのでそれきりで満足してしまうかと思えたが、依然として文章を書く欲が消えることはなかったので、引き続きしょうもない話を展開していこうと思う。見てしまったのが運の尽きだ。どうかお付き合い願いたい。

 

 さて、始めが挨拶であったから、実質これが初めての記事になる。何を書こうか悩んだが、文章を書きたくなったという動機から生まれたこのブログ、であれば最初は私と文章について、私と文章との出会いの思い出について話すべきだろう。

 

 今でこそ、文学部とかいうところに入ってはいるものの、その昔、私は読書をそこまで好まなかった。小学生の頃の私はそれこそカツオもかくやというほど、家に帰ってきてはランドセルを放り投げ、友人と外で遊ぶという今では面影がない、なんともアウトドアな人間であった。

 その一方で国語が苦手であるというわけではなかった。国語の教科書を読むのは好きであったし、国語図表は授業そっちのけで眺めていた人間だ。しかし、自分から読書するのはかいけつゾロリ・こまったさん/わかったさんシリーズや伝記シリーズなど、半ば絵本であるものや、創作小説とは呼べないものが大半で、自主的に文字に手を伸ばすことはほとんどなかったことのように思う。

 こうして書き連ねていてわかるのは、つまるところ私は、授業以外で文字を追うことを怠けていたのであろう。

 

 そんな私を見かねたのか、双方とも読書家であった両親のどちらかが私に一冊の本を買い与えた。それが、『齋藤孝のイッキによめる!名作選 小学三年生』だ。(もしかしたら私が買ってほしいとねだったのかもしれないが、昔の私は、どうにもそんな願い事をする人間とは思えない。)

 名前の通り、一つの物語が収められたものではない。古今東西ジャンルを問わず、あらゆる物語が収録されている。短い話から興味あるものを見つけ、続きが知りたかったら別途買って読めばいいのではないかという小学生用の読書入門書であった。(ちなみに、本を渡されたとき私は小学四年生であった。少し、凹んだ思いがある。)

 

 その中でも色鮮やかな感動をしたのが、『名探偵登場』という物語だ。

 あらすじは、とある少女が住む家の隣に、一風変わった男が引っ越してくる。隣の家はとても人が好んで住もうとは思えない古びた洋館で、そんなところに住む人間だということだけでもヘンテコであるのに、あまつさえ表札に「名探偵」とまで書かれていたのだ。こんなに奇妙な人にはそうそう会えない。ということで、名探偵と名乗る男は何者なのか・そしてその男は本当に名探偵なのか?それを調べるために、主人公たちは調査を開始する。

 ざっとこんな話を私は読み進めていったのであるが、ぐいぐいと話に惹きつけられていく。まず調査対象の男が本当に奇妙なのだ。名探偵を自称するには記憶力があまりにも乏しく(自身の誕生日すら覚えていない)、服の着替えをそう持っておらず、食べることすら忘れていてもとても意地汚い。要するに、生活力と常識がないのである。なのに、どこか愛嬌があって憎めない。調査している少女側もチャーミングで、なおかつヘンテコな男に冷静にツッコミを入れていく。その軽やかなやり取りがやみつきになるのだ。

 そうこうしているうちに、調査している少女のとある秘密を、唐突に男はその圧倒的な観察力で見事に言い当ててしまう。

 

 私はそのとき、ピシリと一瞬止まった。青天の霹靂。ずっと文章を追っていたはずなのに、ずっとその男と同じ状況にあったのに、その秘密にちっとも気づけなかったのだ!

 脳にじわじわと汗が浮かぶのを感じながら、男の推理を読み進めていく。謎が紐解かれる言葉を読んで、その都度前のページへと戻って、なるほど確かにその手がかりは提示されていたと、納得と同時に悔しさも覚えた。一種の快感すら覚えたと記憶している。

 これまで物語を読んで面白いなとぼんやり感じるしかなかった私が、「もっと読みたい!もっとこんな思いをしたい!心の底から『やられた!』と思いたい!」と貪欲になった、そして本の方から「ちゃんと読め!」と語りかけられたのは初めての体験であった。が、無情なるかな。少女が負けを認め、男が真の名探偵だとして物語はふっつりと途切れる。当然だ。この本は入門編であって、この物語はその中の短い話の一遍でしかないのだから。

 

 …この体験からしばらくの後、私は初めて文庫本に手を出すことになる。それが、はやみねかおる著『夢水清志郎シリーズ』である。

 これが私と文章の、思い出せうる限り一番古く鮮やかな記憶である。そして、国語の教科書では知り得なかった「ミステリー小説」との出会いでもあった。その後は読書に対する怠け癖も多少抜けたのか、みんなご存知青い鳥文庫の様々な児童文学シリーズやら多くの小学生が拗れる元凶になったであろう『ダレン・シャンシリーズ』などに手を出すことになる。すなわち読書の夜明け。本格的な始まりであった。 

 

 …ちなみにこの話を書くにあたって、件の読書入門本をパラパラ読み返してみると、そこには『よだかの星』『杜子春』『時そば』『耳なし芳一』、他には星新一ショートショートさくらももこのエッセイなどそうそうたるメンツが収録されていたのだが、『名探偵登場』の話があったことしか覚えていなかった。よっぽど上記の思い出が衝撃だったのだろう。

 

 『夢水清志郎シリーズ』には、今後の生き方やら考え方に多大に影響を与えられたので、そのうち語ることもあるかもしれない。私は大人になった今でも、あの物語群を小学生の頃と変わらず抱きしめ続けているのである。

 

 それでは今回はここまで。グッドナイト&ハブ・ア・ナイスドリーム。なんちゃって。