一汁一菜、一木材

ただの備忘録です

電子の再生紙宣言

周りが空前のブログブームである。

 一体何が火種なのかは知らないが、にわかに長い文章を書くことに挑戦しようという空気が周りに漂いつつある。

 流行りにのらずに何がミーハーか。…というわけで私も何かしら文章をこしらえようとしてノリノリではてブロを開設したまではいい、しかしこういうことは事前に考えるのが当たり前ではあるのにそれがすっぽり抜けていた。

 

 はたして私は何を書けるのか?

 

 一口に文章と言っても様々なジャンルが存在する。創作としての小説、詩、あるものを観た際のレビュー、自身の体験談を語るエッセイなどなど。なにか出来やしないか考えてみたが、どれもこれも一定のハードルがあるものばかりだ。

 小説や詩を載せるには恥が勝ち、レビューするには知識が足りず、エッセイをこしらえられるほどの日常を切り取る鋭い観察眼とやらも持ち得ていない。まさに八方塞がり四面楚歌、一応文系であるというのにどう仕様もない事態。読書感想文やら、中学・高校と受験で必要な小論文で苦悩し続けた思い出が蘇る。(そしてそれは克服されることなく、現在も論文やレポートで苦悩し続けている。)

 

 しかし、そんなこととは関係なく文を書きたいという気持ちはムクムクと湧き上がっていくのでどうにかせねばならない。うんうん頭を悩ませ、もとい、自分の中の羞恥心に説得を繰り返した末にひりだした結論は、「備忘録」という形だ。

 

 突然だが皆さんは、幼少時のことは覚えているだろうか?

 10代の人は、まだはっきり覚えている場合が多いであろう。しかし、20代に突入し、車の免許やら酒解禁やら就活などの新たなイベントにところてんのように押し出され続けた私は、思い出せることはそう多くない。人間は全てを覚えていられるわけではない、ないが、それにしても色んなことを忘れすぎてはないだろうか。楽しかったこと、誰かにもらった優しさや、恨めしくて身も世もなく怒り散らした幼い日々は最早あなぼこで、ただただ情緒が育った私だけがぽつんと存在するだけだ。 

 今ある記憶が研磨した中で選びぬかれた宝石のようなものなのかもしれないが、それだって本当にそうなのかという保証はない。この先も、私はたくさん綺麗なものも汚い感情も忘れていくのだろう。それは少し、恐ろしい。忘れることそのものは恐ろしくないのだ。ただ、多少中身が抜け落ちても私は私を保てているのが腑に落ちないだけである。

 

 というわけで、私はまだ持ち得る思い出を記録していきたいと思う。話題が尽きればそれまでで、それが終わったら難儀な羞恥心は消え失せ、また新しい別の何かが書けるのではないか。その思い出が、選びぬかれた宝石だと願うようにだ。

 

 いわばこれは、引き出しにいつしまったかも忘れたメモ帳を引っ張り出し、ノスタルジーにふけりながら思い出を書き連ねる備忘録であり、日記であり、メモのようなもの。そしてそのメモ帳は木材であるこの身を削り取って資源とした再生紙。なんとも地球に優しいではないか。載っけているのは紙より儚い電子の海じゃん、とかいうツッコミは言ってはいけない

 加えていっておくが、私は非常に気が変わりやすいので、この試みがはたしてどこまで続くかわからないが、それまで、どうぞ生暖かい目で見ていただきたい。

 

 以上が、私がミーハーにもブログを始める言い訳である。